【どんな方だった?】東洋の魔女 磯辺サタさん(72歳)逝去

こんにちは(+_+)

本日は悲しいお知らせです。
「東洋の魔女」の愛称で親しまれた全日本女子チームの一員として1964年東京オリンピックに出場し、金メダル獲得に貢献された丸山サタ(まるやまさた/旧姓:磯辺)さんが、12月18日(日)にご逝去されました。生前のご厚誼に深謝し、謹んでお知らせ申し上げます。

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磯辺サタさんの紹介

氏名 丸山サタ(まるやま さた) 旧姓 磯辺サタ(いそべ さた)
享年 72歳
生年月日 1943年12月19日
ポジション ウイングスパイカー
出身地 千葉県
身長:173 cm
出身高校 四天王寺高等学校卒業
所属クラブ 日紡貝塚
主な実績
1962年 世界選手権(ソ連 優勝)
1965年 東京オリンピック(東京 優勝)

木村憲治本部長 コメント

「丸山(磯辺)サタさんの突然の訃報に接し、驚き言葉を失っております。ご家族の皆様方のお悲しみをお察し申し上げますとともに、故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。私自身が全日本男子チームのメンバーに選ばれたばかりの頃、ほんの少しではございますが丸山さんと活動をともにさせていただいたことを今でも覚えております。丸山さんは当時の全日本女子チームの中では若手のメンバーでしたが、東京オリンピックでは『東洋の魔女』のメンバーとして日本に金メダルをもたらす活躍をされました。2020年東京オリンピックでも『丸山(磯辺)さんの再来』とも言える若手選手の台頭が期待されます。丸山さんのご遺志に応えるべく、関係者一同が力を合わせ、2020年東京オリンピックあるいはその先の未来に向けて日本バレーを盛り上げてゆく所存でございます」

中田久美全日本女子新監督

「『東洋の魔女』と呼ばれた全日本女子チームの一員として1964年東京オリンピックに出場され、金メダルの獲得に貢献された丸山(磯辺)サタさんがご逝去されたことを知り、大変驚いております。2020年、オリンピックのバレーボール競技が生誕した東京の地に、バレーボールが『里帰り』することを、丸山さんも楽しみにしてくださっていたものと思います。日本バレーの礎を築かれたお一人である丸山さんへの心からの感謝を胸に、『東京オリンピックで金メダル』を再現すべく、日本バレーボール界を挙げて全力で強化に取り組んで参ります」

東洋の魔女とはなんだろう?

東洋の魔女は、1961年の欧州遠征で22連勝した日紡貝塚女子バレーボールチーム(監督:大松博文)につけられたニックネーム。

1964年東京五輪では同チームのメンバーを主体とした全日本で出場し、5試合で落としたセットは1セットのみという圧倒的な力で金メダルを獲得した。ソ連との優勝決定戦では視聴率66.8%を記録し、スポーツ中継としては歴代最高となっている。

たかひろ
東洋の魔女は個人に付けられた相性ではなくチームに付けられた相性なんだね!

1961年欧州遠征

1961年の欧州遠征で日紡貝塚は22連勝を記録する。ソ連からの外電も彼女たちの偉業を認め日紡貝塚に東洋の台風東洋のまほうつかいの異名をつけて世界的なヒロインとして伝えた。出場メンバーは以下の9名である。

河西昌枝、姫田睦子、宮本恵美子、増尾光枝、中島澄子、西原篤子、谷田絹子、半田百合子、松村好子

1962年世界選手権

1962年の世界選手権はすでに東洋の魔女として恐れられていた日本が宿敵・ソ連にどこまで迫ることができるかが最大の焦点となっていた。柔道の受け身に似た回転レシーブ、手元で微妙に揺れる変化球サーブを駆使して最終戦のソ連との全勝同士の対決はセットカウント3-1で勝利し優勝した。日本の団体球技が世界大会で優勝するのはこれが初めてであったため、社会的なニュースとして日本で大きく取り上げられた。出場メンバーは以下の12名である。

河西昌枝、宮本恵美子、増尾光枝、谷田絹子、半田百合子、松村好子、青木洋子、山田暉子、松村勝美、本田憲子(以上、日紡貝塚)、磯辺サタ、篠崎洋子(以上、高校在学)

1964年東京五輪

左から2番目が磯部サタ さん

1962年世界選手権後、優勝の褒美に世界一周旅行を行い、結婚適齢期を迎えたことから選手達と大松監督は既に引退を表明していたそうです。

しかし1964年の東京五輪から女子バレーボールが正式種目に入ることが決定したことから、『是非東京オリンピックまで続けて欲しい』と、日本バレーボール協会幹部が日紡貝塚へ日参したり、一般ファンからも大松率いる東洋の魔女続投を望む手紙が5,000通に亘って大松博文へ宛てて送られるなどして東京五輪へ向けて周囲の声が高まったことなどを受け、東京オリンピックまでが2年であることでキャプテン河西が決断し、大松監督の「俺についてこい」の一言で、選手達はオリンピックまで続けることを決意した。

1964年10月23日、東京五輪のソ連との全勝同士の対決では、日本が順調に2セットを連取した。3セット目も試合を優位に進めたが、14対9のマッチポイントを握った場面からソ連の粘りが続いた。テレビ放送にて決勝戦実況中継担当アナウンサーであった鈴木文彌が「金メダルポイント」のセリフを6度も繰り返すこととなった。最後はソ連の選手のオーバーネットによる反則により金メダルを獲得した。出場選手は以下の12名である。

河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯辺サタ、松村勝美、篠崎洋子、佐々木節子、藤本佑子(以上、日紡貝塚)、近藤雅子(倉紡倉敷)、渋木綾乃(ヤシカ)

 

まとめ

当時、磯部サタさんはチーム最年少で活躍していました。それから東京オリンピックまでチームの中心として頑張られ東洋の魔女を牽引されました。ここで謹んでご冥福をお祈りいたします。

上で紹介しましたが、磯部さんは千葉県出身で、中学生の時にバレーボールを始め、東京オリンピックで日本代表の監督を務めた故・大松博文さんの誘いで、当時の大阪にある四天王寺高校を経て大阪の実業団の強豪、日紡貝塚に入団しました。

今の時代では身長が173cmではそこまで長身ではないですが、当時は身長1メートル73センチは長身で、20歳で代表に選ばれた東京オリンピックではアタッカーとして活躍し、「東洋の魔女」と呼ばれたチームの金メダル獲得に貢献しました。

磯部さんは現役を引退後、大阪を拠点に競技の普及に努め、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催が決まったときは「若い選手にとって新たに目標ができた。プレッシャーに打ち勝ち、勝利をつかんでほしい」と選手たちにエールを送っていました。

磯部さんは、大阪市内の自宅で入浴中に体調を崩し搬送先でお亡くなりになりました。

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